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WATASHI-HA-KUDA-DATO-OMOU-NODE-ARU / 私は管だと思うのである

A COLLABORATIVE SHOW WITH POET MIKIO YAGI

KUDA

2006
mixed media
variable size
two persons exhibition with YAGI Mikio [poet] / gallery Space YOU, Japan


SOBYOU / 素描 2006

2006
porcelain painting
two persons exhibition with YAGI Mikio [poet] / gallery Space YOU, Japan


私は管(くだ)だと思うのである [Japanese only]

八木幹夫

わたしは戦争が好きだ
わたしは人が殺されるのを見るのが好きだ
わたしは怒鳴り合う人間たちを隣で見ていることが好きだ

わたしは言葉で苦しむ人々が好きだ
わたしは言葉で罵り合う人々が好きだ
わたしは疲れ果てて言葉を失った人を隣で見ていることが好きだ

わたしは排泄するようにものを食うことが好きだ
わたしはものを食うように排泄することが好きだ
わたしは世界が排泄したものを食うことが好きだ

わたしは管だ
わたしは管だと思うのである
わたしは尻の方から割れてわたしを食おうとする意志をもつ蛇だ
みずからの尻尾をのみこむウワバミだ

わたしはわたしという人称を捨てた管だ
管はわたしを模倣する
わたしはわたしという人称を捨てて
管だと思うのである

管が動くのである
動く管なのである
管は果てしなくつながる管なのである
管 管 管 管 管 管

管の内部でうごく液体
分泌される液体
黄色く濁る水
ぴちゃぴちゃとゆれる体液

内部なんてあったのだろうか
外部だけでできている皮膚ひふ皮膚ひふ
びらびらと内側へむかって流れる川
川はいつか内から外へ流れ始めるだろう 命の外へ


眠っていれば よくわかるのだ
外部は内部の動きに助けられて
体操選手の後転のように自分の内側へのめり込み
内側は外へむけて突出しようとする

外は内となり
内は外となる

食べることは内側を消耗させることだ
内側はやがて外側となるのだ

わたしは世界が通過する管である
わたしは自分のくちびるを裏返す

管を外側に巻き始めたのは誰か
内側を外側にしてゆく瞬間から
管は下痢が止まらないのだ

おお下痢する管よ
くだしつづける
管よ
汚物のような世界よ
汚物のような情報よ

わたしは食べるそばから下痢する管だ
わたしは下痢する管であり続ける 

美しいバラのような管よ
裂けよ 咲けよ

2006年2月3日午前0時作。


西澤 利高さんへ

一昨日は上溝の工房を訪問させていただきありがとうございました。立体造形の制作現場というものを見たのは初めてのことです。先日、拙宅に今回のイベントの素敵な葉書と案内を持ってきてくださった時に、作業着姿のあなたの身体全体から、一種独特の匂いを感じました。鉄鋼所のあの鉄の燃え上がる匂い。そうそう、ほら、高度経済成長期の日本のどこでも見かけた建築工事現場の青い炎とその音の余韻。作業着の匂い。鉄を折り曲げ、伸ばし、よじり、切断する現場はどんな所なのか、その空間に急に興味が湧きました。工房の引き戸を開けるといきなり巨大な白い犬が寝そべっていましたね。足の膝関節に癌があり、手術したけれどなかなか完全治癒しない。足切断が延命策になるかもしれないとのこと。大人しい気立てのいい犬です。窓の向うは相模線の線路の土堤。室内はまるで事故現場のように私には見えました。
 LPガスボンベ、バーナー、レンガ窯、鉄板、?(かなとこ)、ボール盤、錐揉盤、立て万力等が作業場の四隅にそれぞれ配られ、現在制作中の作品が中央に置かれている。私の詩作品『私は管(くだ)だと思うのである』に触発されて作ったといわれるその鉄の造形物の姿態に私は興奮しました。それは一瞬、女性のもっとも恥ずかしい体勢であり、男性から見ればもっとも欲情をそそる姿をそこに展開していたからです。鉄という固く重い素材に情欲が起こるということは矛盾であり驚異です。股間の接着面にバーナーの強烈な火を当ててひとりこの部屋で制作している姿を想像すると、作家と物体との間に生まれる不思議な闘いは古代の「たたら」の部族が山を焼いて鉄鉱石を溶かす作業を連想させます。ひとつひとつの鉄が捩られ、空隙の中にやわらかな曲線を幻想させて、全裸の女性の妖艶を引き出しています。性のいとなみの中で洩れてくる喘ぐ声や息遣い。その管の先端から洩れる空気。どのような生物も管とその管を受け入れるもう一つの管を通して生命の繁殖行為が行われる。そこには不浄も不潔もありまあせん。動物には卑猥は存在しません。逆にいえば卑猥を感じ取る人間の中にこそ真実があるともいえます。しかし、よく見てみると、それが女性であると誰が断言できるでしょうか。臀部から腹部に向う視線の先には胴体が筒状になって鉄管が前屈みに倒れ込んでいるだけです。胸部の膨らみもなければ、頭部や顔もありません。管があるだけです。これを女性と思い込んだのは錯角かもしれません。私たちの体内を流れる血液もまた、血管という管を通過しつつ心臓の鼓動とともに脳内を巡るわけです。管(くだ)は実は物質内部を通過しつつ酸素や栄養分を運ぶという不思議な役割を果しています。思考する、考えるという行為はこの管が運んでくる栄養素や酸素の働きに依存することが大きいのでしょう。


私は小さな時から不思議に思っていたことがあります。人間の身体はその大半が水でできているといわれていますが、物質であることに変わりはないわけです。物質が何故、思考することができるのか。考える行為そのものとはいったいどのような化学現象なのかということ。これは勿論、人間にだけ与えられた特権であるのかどうか。特に言葉の発明によって人間は猿からヒトへ長足の進化をしたといわれます。脳の発達もそのことと連動しています。最近の研究では、ヒトの直立歩行が言語の発音をする部分、口蓋部分の発達を即し、従来の母音を主体とした音声に加えて子音を使いこなし、劇的な語彙の増加が始まったといわれます。言葉を沢山持つということは多くの情報量を獲得することになり、群れが次第に大きな家族や集団を形成するようになったといえるでしょう。文字文化が長く続いた後に、更に表記言語、文字の発明が起こります。これによって飛躍的に過去の智慧を保存することが可能になります。文字の獲得は人間の頭脳に更なる成長を即したと思われます。いや、脳の発達が言葉の急速な進化を即したともいえるかもしれません。今こうして私が考えを進めることができるのも、言葉によって自分の頭脳の浮かぶ考えをまとめられるからです。もし、言葉を持っていなければ私は「もの」や「こと」をどう表現するかに苦しむでしょう。実は「もの」は目の前にあれば、それを指差したり、手に持って教えることもできますが、「こと」はそういうわけにはいきません。昨日誰々に会って、そのヒトの考え方に共感した、そのことをお前に正確に伝えたい。というような場合「過去」をどう表現したらよいのか。時間という抽象概念を正確に学習するのはとても難しいことであり、一種の飛躍が必要です。人類はこうした飛躍、ひらめきのような力を次第に獲得してきたのですね。


時間について話してみたいと思います。過去や現在や未来という自制を視覚的に掴むことで時計のような計器類を発明します。時間の発見は言葉の発明と無縁ではないでしょう。太陽の沈む時、再び太陽が現れる時をやがて空間化することによって、漠然とした時間を狭い空間の中に閉じ込めて刻む。それが時計の始まりといえましょう。中国では時間を物量として水によって計量化する方法がとられていました。日本では天智天皇の時代に中国の技術を学んで水時計を作らせたといいます。その応用が砂時計ですね。同時に時間は数に置き換えられる。数値による記号化が起こってきたのですね。元来、人間は抽象的な思考は苦手なところがあって、高度な数学や物理学や哲学でも、一般の人々の頭脳に判りやすく理解されるためには、その説明が具体的で身近であることが肝心です。事実、頭脳明晰な人は、見事に映像的に、聞いている人々の心えに判るように伝える能力をもっています。今回、私はご縁があってお経の本を現代日本語に訳すという大それたことをしたのですが、お経をほんの少し読み解くだけで、感心することがありました。それはお釈迦様の伝えようとした言葉を弟子たちが懸命に平明な比喩で語ろうとする点です。例えば、劫という言葉(サンスクリット語ではカルパ)は永遠の時間を表す単位なのですが、どれくらいの長さであるかを伝えるために、具体的に巨大な岩を引き合いに出します。途方もない岩が眼前にあります。人々は岩肌に触れ、見上げます。岩が磨耗して跡形もなくなくなるのにどれくらいの年月がかかるでしょうか。現代ならさしずめ、削岩機やブルドーザーでたちまちに山を動かさんばかりに破砕してしまうかもしれません。ですから永遠という時間も現代風にコンパクトなものに捉えられる可能性があります。しかしお経ではこういうのです。百氈(びゃくせん)といってインド沙紗のような柔らかな布で百年に一度の間隔でその岩を撫で続け、ようやく岩山が磨耗して消えてもなお、終ることのない長さを「劫」と呼ぶのだそうです。その永遠の単位を基にさらに百劫あるいは百千万億劫というのですから、現在のコンピューターの数値をはみ出すことは間違いないでしょう。仏教の宇宙観というのは正に計測不能の世界を表現しているといえます。余談ですが、ナムアミダブツというサンスクリット語を漢訳した言葉がありますが、南無阿弥陀仏という漢字を分解してみますと南無は尊敬するものに対して帰依するの意味。阿弥陀仏はア・ミ-タブで測ることのできないものという意味です。ですから「計り知れない永遠に私は帰依します」と唱えていることになります。仏陀は本来自分を偶像化してはならない説いた方です。しかし、人々は仏陀の死後、その教えを通して仏のお姿を視覚化し、手で触れることのできる仏像にしました。これは対象の理解を深めるためには必然的な行為です。目で見て、触れられるということが人々の信仰をさらに強化することにつながったと考えるのが自然です。さきほどの「劫」と同じです。

八木幹夫